れーぞん・でーとる

立教生が旅・本、映画、アニメ・大学生活を遊び尽くすブログ

「死」体を一日中眺めて「生」き方を決めた話

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もう10ヶ月以上前の遠い記憶なのに、未だに思い出すことがある。あの痩せ細った老人の安らかな死に顔を。

 

2017年1月、休学してインドへ行った

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大学2年の夏、大学を休学した。「退屈な毎日が嫌だった」とか「漠然とした将来が不安」とか「自分を変えたかった」とか、そういった感情が頭の中でぐちゃぐちゃになって、耐えきれなくなって、ぼくは逃げ出した。

 

休学期間中は何かを探し求めるかのように、色々なことに挑戦した。「金髪碧眼の美女と付き合いたい」という安易な理由をこじつけて留学してみたり、本当はビビってるくせにヒッチハイク屋久島を目指してみたり。

 

人は「よくそんなことできるねー!」なんて言ったけれど、南国の島で仲間とビールをたらふく飲んでも、日本の西の果てで山登りをしても、ふと鏡を覗き込むとちっとも変わっていない自分がいつもそこにいた。

 

大学復学まで残り3ヶ月を切っても、「自分は何を成し遂げたのか?」「休学をした意味はあったのか?」と悩み続けていた。これっぽっちも変わらない自分に気づいては、焦りを感じた。そして、思い出したみたいにインドへと飛び立った。今の自分を変えるきっかけを探すべく。

 

そんな焦燥の日々から解放されたのは忘れもしない、今年の1月のこと。ガンジス川ほとりにある街バラナシに滞在して、炎に焼かれる老人の死体を眺めたあの日、自分の中に答えのようなものを見つけた。

 

火葬場で一日中死体を眺めたあの日

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バラナシの火葬場には、24時間365日インド中から死体が運ばれてくる。聖なるシヴァの炎でその身を焼かれ、遺骨をガンジス川へと流され、命がガンジスへと還っていくこと。それが多くのインド人にとって、理想の最期であると聞いた(日本で生まれ育ったぼくには、未だに理解できないことだけど)。

 

その風習を知ったのは、大学で受けた教養の授業がきっかけ。古代ローマの墓碑や南米の彫像といった参考資料を眺めている中で、バラナシの火葬場を写した1枚の写真に一際引き込まれた。理由は分からないけれど、神聖で厳かな何かを感じた。

 

「死ぬまでに一度は行ってみたいなあ」と思ったことを、今でも鮮明に覚えている。

 

そんな記憶がいつまでもトゲのように引っかかっていたので、一念発起して行くことにしたわけだ。タージマハルのあるアグラから、寝台列車で12時間かけて。

 

実際に見た風景はまさに写真の通りだった。炎に包まれる遺体、薪を放り込む使用人、牛や野良犬は残った骨を狙って辺りを徘徊し、その周りでは子供たちが何食わぬ顔でクリケットで遊び、背後には泰然と流れるガンジス川。外国人であるぼくにとっては非日常であっても、彼らにとっては平凡な日常がそこにある。

 

ショックを受けることもなく、静かに涙を流すこともなく、ぼくは1日中ただ火葬場を眺め続けた。薄汚れた白い布に包まれた老人の遺体が焼かれ、焦げ臭い匂いを撒き散らしながらくすぶっていき、ピンク色の腸がぶくぶくと膨張し、やがて白い骨が露出する、その光景を目に焼き付けるように。

 

話したことも、触れ合ったことも、生きている姿を見たこともないのに、ぼくはあの痩せた老人の安らかな死に顔を未だに忘れることができない。10ヶ月が経った今も。これまでも、これからも、きっと一生頭の片隅に残り続けるのだろうと予感している。

 

死ぬ時になにを思うのか、なにが残るのか

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当時の日記を読み返してみると、『あの日、多感な20歳の青年が感じたこと』の全てが書き留めてある。物心つく前に祖父がなくなって以来「死」を体験することはなかったから、本当に様々な感情が溢れた。

 

1番強く思ったのは(というよりふと気になったのは)、「自分の死に顔はどんなものだろう」ということ。あの老人のように満ち足りた、穏やかな顔なのだろうか。それとも今までの人生を悔いて、苦しそうな顔なのだろうか。そして、意識が遠のき死が訪れる瞬間何を思うのだろうか、その手に何が残るのだろうか。

 

当然「いざ死にますよ!」というタイミングでないと答えは分からないけれど、理想としてはあの老人のような表情を浮かべていたい。「良い人生だったなあ...」と、満足して最期を迎えたい、そんな風に思った。

 

「なにをやりたい」とか「なにを成し遂げたい」とか具体的な答えはまだ見つかっていないけれど、死ぬ瞬間に後悔だけはしたくない。その思いがまるで強迫観念や呪いのように、今でもぼくの心に奥底に刻み込まれている。そんな感覚がある。

 

「死」を目の当たりにして、「生」き方を決めた

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あれから10ヶ月、ぼくは大学へ復学した。元いた場所へと舞い戻り、今までと変わらない平穏な日常を取り戻した。半年間の出来事が、あの日の思い出がまるで夢だったのかのように、淡々と日々は流れていく。

 

けれど、

例えば友達と酒を飲んでいる時、

通学電車の中で外の景色を眺めている時、

朝目を覚ます時、

夜布団に入る時、

何もかもがうまくいって自分が嫌になった時、

フラッシュバックするみたいに思い出すことがある。あの痩せ細った老人の安らかな死に顔を。満ち足りていて、どこか微笑んでいるようにも見える表情を。

 

人生を満足した状態で終えたいなら、心からやりたいことにチャレンジすることを恐れるな。

最期の瞬間を笑って迎えたいなら、中途半端な現状に留まったりするな。

道に迷う度、彼の穏やかな顔がそう訴えかけてくる。

 

ぼくはあの日、「死」体を一日中眺めて「生」き方を決めた。