社会不適合休学系大学生のブログ

イトウワタルです。休学してセブ島留学や西日本ヒッチハイク縦断、インド一人旅を経験。ゆるりと眺めてみてね。

”死”を意識する重要性

日本の社会・慣習の中では”死”をタブーとしている部分があります。

危篤の患者は病院で隔離されるし、葬式での火葬の際遺体は棺桶に入れられて見えなくするし。

そんなわけで、ぼくは祖父が亡くなってから約15年間、死体を目にする機会がありませんでした。

だから”死”について深く考えた事も今までありません。というか具体的なイメージが浮かばないのです。死んだら天国に行くのかなーとか、科学的には心拍が機能しないから”無”になるのかなー、とか漠然に思っていました。

 

けれど今回インドのバラナシにある火葬場”マカーニカル・ガート”に行き、火葬の一連の流れを目の当たりにし、”死”について考える機会がありました。正しくは、自ら機会を設けました。これからの人生生きていく上で、必ず考えておくべき事であると本能で思ったからです。

火葬場のレポート及びインド旅行記は帰国してからどっしり腰を据えて書くつもりなので、今回は”死”を意識する重要性について考えようかと。

 

今の20代の若者の半数以上は、医療技術の発達により120歳まで生きると言われています。遥か昔は平均寿命が40、50代くらいだったので、当時からすると考えられない事です。

ですが、これだけ技術が発展しても、

生きている限り人間には必ず”死”が訪れます。

当然ですけど、避けられない事です。

だからこそ、今の”生”の有難みに気付きより充実させるためにも、”死”を理解し常に意識する重要性は大いにあるかと考えます。

 

日本に住んでいる限り、日常において”死”に触れる機会はあまりありません。車に引かれた猫や飼育放棄で餓死する金魚とかじゃなく、人間の”死”の事を指しています。

ある種タブーとされている部分もあるのではないですかね。

一方で、古代ローマでは死を皮肉ったことわざが彫ってる墓石が沢山あります。

インドでも、死体を聖なる炎で焼きガンジス川へと還す行為は聖なる儀式なんだそう。

それぞれやり方も違えば考え方も違いますが、少なくとも日本のように”死”をタブーとして、ネガティブなモノとして捉えていない事は明白です。

 

今回ぼくはインドのバラナシを訪れて、人が聖なるシヴァの炎によって灰になり、この世界から完全に消えてしまうまでの三時間を見届ける中で、初めて”死”について意識するようになりました。”死”がよりリアルになり、具体性を帯びたのです。

 

思った事は沢山あったけれど、一番強く感じたのは

たとえ80年必死に生きたとしても、たった3時間でこの世から跡形もなく消えてしまうんだ。”

って事。

 

凄く恐ろしい話です。でも実際にぼくはこの目で確認しました。いや、3時間もかからなかったです正直。

”人は必ず死ぬ。”

そんな事は誰だって知っている、当然自分も知っているつもりでした。

が、今回の経験によって、本当の意味で理解しました。

今までのような緊張感の欠ける形だけの理解でなく、心の底から。

 

人間の最期を見た事があるというのは、非常に貴重な経験です。こうしてバラナシに足を運ぶ事ができて良かった!

けれど同時に底知れぬ恐怖も植えつけられました。知ってしまったが故に恐ろしくもあります。

 

が、”死”を畏怖するのではなく、認めて、受け入れて、自分なりの解釈をする事で恐怖を克服出来るのではないでしょうか。

”死”を意識する事で、恐怖によって身動き取れなくなるのを避けるために、より”生”を充実させる事が出来るかもしれません。

”死”を意識する事で、人間皆いずれは死ぬのですから、周りの人間に優しく出来るようになるかもしれません。

未知のモノが迫ってくる怖さはあるけれど、意識の仕方、解釈を帰れば、相反する”生”に対してに働いてくれると考えます。

 

そういった面で、”死”を意識する事は生きていく上で重要です。

やがて迎えなくてはならないモノを受け入れ、理解し、自分なりに落ち着ける事で、得られるモノ(新たな価値観、”生”への緊張感など)があるでしょう。

なにもインドのバラナシに来い!と言っているわけではありません。

少し頭の片隅に入れておくのもいいですし、ネットで少し調べてみるのもいいでしょう。必ず何らかの形で”生”の役に立ちますから。

なにより、これからの日本は少子高齢化から打って変わって、団塊世代の大量死時代を迎えるわけです。今までとは比べものにならない数の”死”を経験するのです。

それも踏まえて、是非とも”死”を意識する重要性について一考してもらいたいのです。